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DJをやっている人間がこういうことを書くと、多少の自己矛盾を孕んでいるように見えるかもしれない。しかし、その自己矛盾めいた感覚そのものが、むしろクラブミュージックという文化の構造をかなり正確に説明しているのではないかと最近思うようになった。

自分は長いことネットラジオを聴いている。いわゆるインターネットラジオというものがまだ半ば地下的なメディアだった時代、ShoutcastのURLをWinampに突っ込んで聴くような頃からだ。当時はテクノやハウスを流す小さなストリームが無数に存在していて、どこかの誰かが延々と音楽を流している。そこには顔もなければプロフィールもない。あるのは音だけである。

今から考えるとあれは奇妙なメディアだった。普通、音楽メディアというものは必ず人間を前面に押し出す。アーティスト名があり、プロフィールがあり、文脈があり、ストーリーがある。だが当時のネットラジオはそうではなかった。そこには人格がほとんど存在しない。誰が選曲しているのかは分からない。DJなのか、プログラムなのか、それすら曖昧なこともある。音楽だけが連続している。

この「人格の希薄さ」が自分は好きだった。

クラブミュージックというのは本来かなり奇妙な文化である。表面的にはDJという存在が中心に見える。DJの名前があり、フライヤーがあり、タイムテーブルがあり、誰が回すのかという情報が重要視される。しかし、実際にクラブのフロアで起きている体験はそれとは微妙に違う。フロアにいる人間の多くはDJの顔など見ていない。見ているのは天井だったり、照明だったり、あるいは目を閉じていたりする。音楽は個人の表現としてではなく、環境として存在する。

つまりクラブミュージックには二つの層がある。一つはDJというパフォーマーの層であり、もう一つは空間を構築する環境音響としての層である。この二つは重なっているが、必ずしも一致していない。

近年の配信文化は、このうち前者を極端に肥大させたものだと思う。MixcloudやBoiler Roomのようなプラットフォームを見れば分かるが、そこではDJの人格が強烈に可視化される。誰がプレイしているのか、どんな人物なのか、どんな背景を持つのか。顔があり、カメラがあり、リアクションがあり、コメントが流れる。音楽は依然として存在しているが、その周囲に巨大な人格のフレームが構築されている。

これはこれで文化としては理解できる。むしろ現代のメディア環境では当然の進化だろう。人は物語を欲するし、キャラクターを欲する。音楽単体よりも、そこに人格が付随したほうが拡散もしやすい。

しかし、どうにも自分はあれが苦手だ。

DJが誰なのかを知りたくないわけではない。むしろ知っている。知っているが、聴いているときにそれを意識したくない。音楽が流れているときに、そこに「誰々がプレイしています」という情報が常に付着していると、音楽が急速に具体化してしまう。音が個人に帰属する。すると空間としての広がりが失われる。

音楽が匿名的であるとき、それは環境になる。音楽が人格に結びつくとき、それは発言になる。

この違いは案外大きい。

NTSのようなネットラジオを聴いているときの感覚は、どちらかというと前者に近い。もちろんDJの名前は存在するし、番組もある。しかし、それは主役ではない。サイトを見なければ誰が流しているのか分からないことも多いし、そもそもそこに強い演出がない。結果として、音楽はかなり純粋な形で空間に漂う。

この「誰かがいるのだが見えない」という状態が、自分には非常に心地よい。

考えてみると、DJという職能自体が本来かなり奇妙なものだ。ミュージシャンは自分の音楽を作る。シンガーは自分の声で歌う。しかしDJは、他人の音楽を繋ぐ。つまり主体でありながら媒介でもある。表現者でありながら、同時にインフラでもある。

この二重性があるから、DJという存在はしばしば透明であるべきだという思想が生まれる。デトロイトテクノの初期の思想にもそういう傾向があったし、ベルリンのミニマルシーンでも似たような美学が語られることがある。DJは音楽を流す装置の一部であり、前面に出すぎるべきではない、という考え方である。

もちろん現実のクラブではそんなに純粋ではない。DJは人間だし、ブランドもあるし、人気もある。しかし、それでも音楽の流れの中でDJがある種の透明性を保っている瞬間は確かに存在する。

ネットラジオというメディアは、その透明性をかなり極端な形で実現していた。人格を徹底的に薄めることで、音楽だけを残す。だからこそ当時のネットラジオには独特の浮遊感があった。どこの国の誰が流しているのかも分からない音楽が、ただ延々と続いている。そこには共同体もヒエラルキーもほとんどない。ただ音の連続だけがある。

今の配信文化は、その逆方向に進んでいる。人格は強化され、可視化され、商品化される。それは時代の流れとしては当然だろう。だが、時々どうしても、あの昔の匿名的なストリームが懐かしくなる。どこかの誰かが、顔も名前も出さずに音楽だけを流しているあの感じだ。

DJをやっている人間がこんなことを言うのは、やはり多少おかしいのかもしれない。しかし考えてみれば、DJというのは本来「自分を消す」仕事でもある。曲と曲の間に存在しながら、最終的には音楽の流れの中に溶けていく。もしそうだとするなら、匿名的なネットラジオが好きだという感覚は、むしろDJの仕事の本質にかなり近いのではないかとも思う。

音楽が誰のものでもなくなる瞬間。あの感覚を、ただ静かに聴いていたいだけなのだ。

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